隣に座った男は、グラスのワインを一口飲んだ。
いつのことかな。
男は切り出した。
昔、恋をしたことがあってね。
そう、とても昔、僕がまだ今の君よりも更に若かった頃の話なんだけれど。
器量も育ちも良くもなければ悪くもない、ごくごく普通の人だったよ。
でも、とても向上心の強い人だった。
社会的な地位や、家柄なんかは当時の僕にはもう既にあったけれど
それでもこの人には勝てないって思ったんだ。
というか、今までその人以外に負けたと感じたことはないのだけれど。
僕も向上心を持っているつもりだが、彼女のそれとは大分違う。
僕は他人を蹴落としてでも、自分を上へ上へ押し上げるようなことを平気でしてきた。
でも、彼女の向上心は純粋に自分の能力を高めることを目標としていたよ。
周りなんかどうでもいい、自分の人生の可能性を最大限に引き出そうとしていた。
実はある日ね、僕は彼女と付き合っていたのだけど、振られたんだ。
ここだけの話にしておいてくれよ。
振られた理由は、あなたの愛は重すぎる、だって。
その頃の僕は彼女が何を言っているのか良く分からなかったけれど、
今思えば、彼女を自分の傍らに飾るオブジェと見ていたのかもしれない。
少なくとも、彼女はそう感じたのだろうね。
私はあなたが他人に自慢するための人形じゃない、って。
そうして彼女は僕の元を離れていったよ。
僕はその時知ったんだ、地位や金、器量や家柄、そういうものを以ってしても
自分のものに出来ないものがあることを。
僕は後悔したよ。
もう少し自分が器用な人間だったらと思ったね。
その後、僕は幾人かの女性とつきあったけれど彼女ほどの人は現れなかった。
というか、全ての女性に彼女を重ね合わせてみていた。
どれ程の向上心があるんだろうと…。
結局のところ、僕は未だに独りだけれど後悔はしていないよ。
正直、寂しいと思うことが時々あるけれどね。
ところで、この前彼女のことを見かけたんだけれど…偶然ね。
近くの眼鏡店で働いていたよ。
旦那と思しき人のよさそうな男と一緒に働いてた。
とても幸せそうに笑いながら話していたよ。
あの頃とは髪の色も、顔の美しさも、比べるまでもないほどだったけれど、
眼だけはあの頃よりも更に輝いていた。
明日は何があるんだろう
明日は何が出来るようになるんだろう
明日は何をしてやろう
その眼を見たとき、僕は確信した。
あの頃と変わらない彼女がいる。
上を目指し、自分を高め続ける彼女が。
年甲斐もなく、胸が苦しかったよ。
でも、苦しいよりもずっと嬉しかったんだ。
僕が今でも彼女を愛していられたことが分かって。
男は話し終わると、グラスに残っていたワインを一息に飲み干した。
これ以上言葉が溢れてこないように、ワインを流し込んだように僕には見えた。
男はその後、何をもしゃべることはなかった。