一番の幸せ

その老婆は、今年、数十年間見なかった花火を見た。



いや、正しくは数十年間見ないでいた、だろうか。



人々は遠く離れたその街に、毎年のように夏空の夜空に咲く数々の花火を見に訪れる。
美しく、そして荘厳な打ち上げ花火を、みな楽しみにしている。

しかし、その老婆にはその花火は傷をえぐる恐ろしいものだった。



遠い夏のあの日、老婆の街は火に包まれていた。
どこが道で、どこが家で、どこが安全なのか、全く分からなかった。
老婆の街は、空から注がれた無数の爆弾に焼かれていた。



その当時、まだ若かった彼女には、生まれたばかりの一人娘がいた。
彼女は燃え盛る火の中を、娘を背負いながら走った。
火は容赦なく親子を追い詰めた。


その時、彼女はどこかから声が聞こえたという。
川へ飛び込めと。
考えるより早く彼女は娘と水の中へと飛び込んだ。
水は生ぬるく、水面には黒い煙が渦巻いていた。


彼女はふと気がついた。


背中の娘が静か過ぎる。


彼女は紐を解き、娘を抱きかかえた。
娘の顔は火膨れていて、息はかすかにしかなかった。
彼女は娘の口を自分の乳房へと持っていった。


もしかしたら、乳を飲めば元気になるかもしれない。


娘は母の想いに答えるかのように、一口、二口とその乳房を吸った。
そして三口吸い、その口を母の体から離すと、二度と動くことはなかった。


今でも老婆は花火の街で特別な想いを胸に夏を過ごしている。
花火の音と光は爆弾のそれを彷彿とし、
そしてあの日旅立ってしまった我が子を思い出させる。




花火はキレイ、美しい。
それは間違いないと思う。
けれど、喜びを持ってそう感じられる今の世は、当たり前のものではない。
どこか遠く離れた街で、この老婆と同じ想いを味わう人がいる。
どこか知らない街で、老婆のように子を亡くす母がいる。
それもまた、間違いなく今の世のもう一つの顔なのだから。




幸せを享受するのは悪いことではない。
ただ当たり前の日常は、非日常の裏返しにしか過ぎないのことに気づくことが、
老婆の願いなのだと、今、過去を語る彼女の目を見ると思わずにはいられない。
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by ryo-ta-n | 2006-08-13 03:16 | 雑記  

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